はじめに
このサイトでは、井田良ほか『刑法事例演習教材[第3版]』(有斐閣、2020年)に収録されている全52問について、私が受験生時代に作成した刑法事例演習教材の解答例を公開しています。第3版で新たに加わった問題群は、近時の議論や実務の傾向を踏まえて、最新の理解を整理する貴重な機会となっています。
第51問「けんかをやめて二人をとめて」は、対人トラブルから殺人に至った事案を題材に、正当防衛の成立要件、特に「急迫性」の判断基準が中心的に問われる問題です。加害者が相手の来襲を予期していた場合において、どの程度まで侵害の回避が期待され、またそれを怠った場合に対抗行為が正当化されるのかについて、慎重な検討が求められます。
この解答例では、正当防衛の趣旨や理論的構造に即して、「急迫性」の要件が失われる場合の判断枠組みを明らかにし、予期された侵害と積極的な対抗行為の評価について整理を試みています。刑法総論における防衛行為の限界を改めて確認するうえで、有益な演習素材となるでしょう。
刑法事例演習教材の解答例として、本記事が皆さんの学習や司法試験対策に少しでも貢献できれば幸いです。
解答例
第1 本設例
1 包丁で、Aの右脇腹を狙って、2回続けざまに強く突き刺した行為について、殺人罪(199条)が成立するか。
2 「殺」す行為とは、人が死亡する現実的危険性を有する行為をいうところ、甲は、包丁で人の枢要部である右脇腹を狙って2回も刺突しているから、死亡の危険を有する行為である。したがって、「殺」す行為といえる。
3 甲は、上記行為を認識認容しているから、殺意(38条1項本文)が認められる。
4 もっとも、正当防衛(36条1項)が成立し、違法性阻却されないか。
(1)正当防衛は、急迫不正の侵害という緊急状況の下で公的機関による法的保護を求めることができないときに、侵害を排除するための私人による対抗行為を例外的に許容したものである。急迫性の要件は、予期された侵害を避けるべき義務を課す趣旨ではないから、侵害を予期していたことから直ちに「急迫」性が失われるわけではなく、対抗行為に先行する事情を含めた行為全般の状況に照らし、正当防衛の趣旨より許容されないときは、「急迫」性が失われる[1]。
甲は、Aと女性関係のトラブルになり、関係がきわめて険悪になっていた。Aは、令和2年3月16日の午前1時頃、甲に電話で、「今から行ったるから待っとけ。」と怒鳴りつけられた。これに対して甲は、「俺は逃げ隠れしない」などと申し向けた。甲は、これまでの経緯からして、Aが自宅に押し掛けることは確実であると考えた。また、甲は、Aは何らかの凶器を持参する可能性があると考え、包丁を準備している。そのため、侵害を予期し、その程度は高い。甲は、Aが遠方に住んでいることから、少なくとも30分程度の時間的な余裕があると考えており、警察に通報していればAが押し掛ける前に警察が到着し、甲を保護できたことは確実な状況であった。そのため、侵害回避が可能かつ容易であった。さらに、甲は、Aが甲宅に侵入しようとしたところ、自ら包丁を携帯して上で玄関ドアを開けてアパートの通路に飛び出し、罵声を浴びせている。そのため、自ら積極的に対抗行為を行ったといえる。
そうすると、甲の対抗行為は許容されないから、「急迫」性は認められない。
(2)したがって、正当防衛は成立しない。
5 よって、殺人罪(199条)が成立し、甲は罪責を負う。
第2 関連設例(1)
甲は、今から警察に通報しても間に合わないと思い、自分で対抗する以外に方法はないと考えている。そのため、侵害を回避することができない。しかし、侵害を回避する義務までは課されていない。また、甲は、Aとの会話の内容から、Aが自宅の近所に待機していることを認識できたため、同人が数分後には凶器を持参して自宅に押し掛ける可能性が高いと考えた。また、包丁を準備していたことから、侵害を予期し、その態度は高い。さらに、甲は、Aが甲宅に侵入しようとしたところ、自ら包丁を携帯して上で玄関ドアを開けてアパートの通路に飛び出し、罵声を浴びせている。そのため、自ら積極的に対抗行為を行ったといえる。
そうすると、甲の対抗行為は、許容されないから、「急迫」性は認められない。
第3 関連設例(2)
甲は、Aが口先だけ威勢がよいことが多かったことから、Aが来襲する可能性はそれほど高くないと考えていた。そのため、侵害予期の程度は小さい。そうすると、警察に通報するなどの侵害回避も期待できないから、甲の対抗行為は許容されるべきである。
したがって、正当防衛が成立し、違法性が阻却される。
参考判例
[1] 最決昭和52・7・21刑集31巻4号747頁(中核派内ゲバ事件)、最決平成29・4・26刑集71巻4号275頁。
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