はじめに
司法試験受験生の皆さん、こんにちは。
このサイトでは、井田良ほか『刑法事例演習教材[第3版]』(有斐閣、2020年)に収録されている全52問について、私が受験生時代に作成した刑法事例演習教材の解答例を公開しています。刑法の重要論点を体系的に整理し、実践的な答案構成力を身につけることを目指しています。
第45問「走る凶器と人間凶器」では、被害者の執拗な追跡・攻撃に直面した運転者が、自車を急発進させた行為の違法性が問われます。本問では、まず傷害罪に暴行の故意が認められるか、そして過失運転致傷罪の成立をめぐって、予見可能性・注意義務違反・因果関係を丁寧に検討する必要があります。さらに、正当防衛や緊急避難の成否が複雑に絡む構成となっており、単に要件を当てはめるだけでなく、心理状態や行動の相当性についての総合評価が求められます。
この解答例では、甲および乙それぞれの立場から、事実認定と法的評価を丁寧に積み上げ、論点を明確に整理しています。過失犯と正当化事由の交錯する難問への対応力を高めるため、ぜひ参考にしてみてください。
刑法事例演習教材の解答例として、皆さんの学習の一助となれば幸いです。
解答例
第1 甲の罪責
1 C信号機が変わるや否や、自車を急発進させた行為について傷害罪(204条)が成立するか。
(1)「傷害」とは、人の生理的機能を侵害することをいう。Aは、甲車の加速についていけず、甲車の右後輪が通過している辺りの路上に転倒し、その際、右前胸部、右側頭部および右顔面部分を甲車の右後輪に轢過されて、瀕死の重傷を負った。そのため、「傷害」にあたる。
(2)甲は、Aから逃げることに必死のあまり、追いついたAが自車の車体をつかんで併走していることを認識していなかった。そして、自車を急発進すること自体は、人の傷害の危険を有する行為とはいえない。そうすると、甲には暴行の故意(38条1項本文)はない。
(3)よって、傷害罪は成立しない。
2 同行為について過失運転致傷罪(自動車運転死傷行為等処罰法5条)が成立するか。
(1)「必要な注意を怠り」とは、過失をいい、過失とは、予見可能性を前提とする結果回避義務違反をいう。
ア 予見可能性とは、一般人の注意能力を基準として特定の構成要件的結果の発生に至る因果関係の基本的部分を具体的に予見できることをいう。
Aを振り切ってからの走行距離、信号で停車していた時間の長さ、Aを含む一般的な若い男性が走る速度などに思いをいたせば、甲としてはAが自車に追いついており、そのまま発進すれば、自車の車体をつかんで併走しているAを転倒させ、巻き込み事故につながる可能性を認識することは十分に可能であった。そのため、傷害の危険について予見可能性が認められる。
イ そうすると、甲は、急発進することなく、ゆっくりと走行する注意義務を負う。それにもかかわらず、甲は急発進しているから、注意義務違反が認められる。
ウ したがって、甲には過失があり、「必要な注意を怠」ったといえる。
(2)1で述べた通り、Aは、「傷」害を負っている。
(3)甲には正当防衛(36条1項)が成立し違法性が阻却されるか。
ア 「急迫」とは、法益の侵害が現に存在しているか、または間近に押し迫っていることをいう[1]。
Aは、甲車の横を併走して歩きつつ、大声で「殺すぞ」「降りてこい」などと怒鳴りながら、甲車の運転席側で路上にあった自転車を胸の辺りまでかつぎ、ドア付近に下ろす感じで当てようとしたりするなどした。そのため、甲の生命・身体に対する侵害が現に存在している。
C信号機にかかって、停車中も、Aは、「逃げるんか」「殺すぞ」と叫びながら、甲車に追いついており、甲車の運転席側ドアノブ付近をつかんでしばらく併走していた。そのため、Aの加害の意思は、旺盛かつ強固であり、車を止めれば加害行為を行うと考えられるから、侵害は継続している[2]。したがって、「急迫」不正の侵害が認められる。
イ 「防衛するため」の行為は、文言上、防衛の意思が必要であり、その内容は、急迫不正の侵害を避けようとする単純な心理状態をいう。
甲は、Aの行動をおおむね認識し、このままでは引きずり出されてひどい目にあってしまうとの危機感を抱き、停車中に追いつかれるのではとの不安でいっぱいの追い込まれた心理状態であった。そのため、防衛の意思が認められる。
ウ 「やむを得ずにした」とは、防衛行為としての必要性および相当性を有する行為をいう。侵害に対する防衛手段として相当性を有する以上、その反撃行為により生じた結果がたまたま侵害されようとした法益より大であっても、その反撃行為が正当防衛行為でなくなるものではない[3]。
たしかに、急発進することなく、ゆっくり走行するだけでも、Aの攻撃が相当困難になることが明らかであったから、最小限度の防衛行為とはいえない。
しかし、甲は、Aの攻撃を受けたことによる恐怖心から、その場で急いで逃れることに必死であり、急発進をしなくてもすむことに思い至ることは不可能な心理状態であり、それは当該状況に置かれた一般人にとっても無理のないことであった。そのため、甲の防衛行為が不当とはいえないから、「やむを得ずにした」防衛行為といえる。
エ したがって、正当防衛(36条1項)が成立し、違法性が阻却される。
(4)よって、過失運転致傷罪は成立しない。
第2 乙の罪責
1 Aとの衝突を避けるべく、対向車線の状況を確認することなくハンドルを右に切った行為について過失運転致傷罪(自動車運転死傷行為等処罰法5条)が成立するか。
2 乙は、「必要な注意を怠」ったといえるか。
(1)乙の走行していた位置、速度などからしても、D車が対向車線を前方から走行してきていることは、対向車線の状況を少し確認すれば認識することができた。そのため、D車と衝突する危険は予見可能である。
(2)そうすると、乙は、対向車線の状況を確認する注意義務を負う。それにもかかわらず、対向車線の状況を確認することなくハンドルを右に切っているから、注意義務違反が認められる。
(3)したがって、乙には過失があり、「必要な注意を怠」ったといえる。
3 Dは内臓破裂の重傷を負っているから、「傷」害にあたる。
4 過失犯においては、合理的な疑いを超える程度に結果回避が可能であったときに因果関係が認められる。
乙が前方を注視していれば、Aを発見してただちに制動措置をとり、Aの手前で安全に停止することは確実であった。そのため、合理的疑いを超える程度に結果回避が可能であったから、乙の過失とDの傷害結果との間に因果関係が認められる。
5 乙には、緊急避難(37条1項)が成立し、違法性が阻却されるか。
(1)「現在の危難」とは、法益侵害が現実に存在すること、またはその危険が目前に切迫していることをいう。
乙は、そのままAを轢過するか、右にハンドルを切ってD車との衝突を回避するかの二択を強いられているから、少なくとも、Aの生命・身体に対する侵害が現実に存在する。そのため、「現在の危難」が認められる。
(2)「避難するため」とは、避難の意思を要するところ、Aを轢過する危険を避けようとして右にハンドルを切っているから、避難の意思が認められる。
(3)緊急避難は、無関係な第三者の法益を侵害するため、逃げることも含めて最も被害が小さい方法が要求される。
そこで、「やむを得ずにした」とは、その危難を避けるための唯一の方法であって、他にとるべき方法がなかったことをいい、法益が均衡していることを要する。
乙がAの轢過を避けるため左にハンドルを切ることは、ガードレールに衝突する結果となるため不可能であり、前方にAの存在を認識した時点で急ブレーキをかけてもAとの衝突を回避することはできなかったため、Aとの衝突を避けるためには、右にハンドルを切るしかない状況であった。
Aの生命・身体を害しかねない状況において、Dの財産・身体を害しているから、法益の均衡が認められる。
したがって、「やむを得ずにした」といえる。
(4)もっとも、乙は、前方の中止を怠って運転していたため、自ら危難を招いたといえる。
緊急避難の趣旨は、公平にあるから、自ら危難を招いた場合には、社会通念上、緊急避難は成立しない[4]。
6 よって、過失運転致傷罪(自動車運転死傷行為等処罰法5条)が成立し、乙は罪責を負う。
参考判例
[1] 最判昭和46・11・16刑集25巻8号996頁(くり小刀事件)。
[2] 最判平成9・6・16刑集51巻5号435頁(アパート鉄パイプ事件)。
[3] 昭和44・12・4刑集23巻12号1573頁(指ねじりあげ)。
[4] 大判大正13・12・12刑集3巻867頁。
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