はじめに
司法試験受験生の皆さん、こんにちは。
このサイトでは、井田良ほか『刑法事例演習教材[第3版]』(有斐閣、2020年)に収録されている全52問について、私が受験生時代に作成した刑法事例演習教材の解答例を公開しています。具体的な事例に即した答案を通じて、刑法の論点整理と答案構成力の向上を図ることができます。
第32問「車に乗せてはみたものの……」は、いわゆるひき逃げ事案を素材として、保護責任者遺棄罪の成否が中心的な論点となります。本問では、事故後に被害者を車に乗せた加害者が、その後適切な保護行為をせずに現場を離れるという事態に対して、どの時点で保護責任が生じ、どのように評価されるかが問われます。
保護責任者遺棄罪の成立には、法的な保護義務の有無とその内容に対する具体的な検討が不可欠です。この解答例では、事実関係の整理を丁寧に行いながら、保護責任の有無や遺棄行為の該当性について論理的に検討しています。
刑法事例演習教材の解答例として、本記事が皆さんの司法試験対策に少しでも役立つことを願っています。ぜひご活用ください。
解答例
第1 甲の罪責
1 Aに車をぶつけた行為について過失運転致傷罪(自動車運転死傷行為処罰法5条)が成立するか。
「必要な注意を怠り」とは、過失があることをいい、予見可能性を前提とする結果回避義務違反をいう。
予見可能性とは、一般人の注意能力を基準として特定の構成要件的結果及びその結果発生に至る因果関係の基本的部分を具体的に予見できることをいう[1]。
たしかに、甲は、法定速度の時速40キロメートルを20キロメートルオーバーした60キロメートルで走行していたから、道路交通法上の速度制限に違反している。甲が法定速度内で走行していれば、Aの手前で車を停車させることができ、Aとの衝突を回避することができた。
しかし、甲が走行していたのは、見通しのよい田舎道であり、法定速度は時速40キロメートルであった。そのため、急な飛び出しが想定される道路ではなかったから、Aが草むらから飛び出してくることを具体的に予見することはできなかったといえる。したがって、予見可能性は、認められない。
よって、甲には過失が認められないから、過失運転致傷罪は成立しない。
2 Aを抱きかかえて車から降ろして、誰もいない公園のベンチにAを運んで行ってそこに座らせ、車に戻って逃げた行為について保護責任者遺棄罪(218条前段)が成立するか。
(1)Aは、車とぶつかり転倒した際にアスファルトの道路に頭をぶつけているほか、足に傷を負って歩行が困難になっている。そして、Aは脳内出血を起こしているから、病院での治療を受ける必要がある。したがって、Aは、「病者」にあたる。
(2)「保護する責任のある者」は、法令・契約・事務管理・条理・慣習に基づく作為義務に加えて、用扶助者の生命・身体を引き受け、あるいは排他的に支配している者に認められる。
甲は、Aに車をぶつけているから、「交通事故に係る車両等の運転者」として、救護義務を負う(道路交通法72条1項前段)から、法令上の義務が認められる。そして、車から降りて道路に倒れ泣いているAに大丈夫かと声をかけ、すぐに病院に運んで行くため、Aを車の後部座席に乗せて、町の病院に向けて出発した。そのため、甲は、車に乗せたことによって、病院に連れて行けるのは甲のみとなっているから、Aの生命・身体に対する危険を排他的に支配しているといえる。したがって、甲は、「保護する責任のある者」にあたる。
(3)「遺棄」とは主体と客体の場所的離隔の生じるものであり、移置と置き去りに分けられる。置き去りとは、行為者が離れていって要扶助者を危険な場所に放置することをいう。
Aは、アスファルトの道路に頭をぶつけているから、甲が逃げた行為は、置き去りにあたり、「遺棄」にあたる。
(4)甲は、上記事実を認識認容しているから、故意(38条1項本文)が認められる。
(5)よって、甲の行為には保護責任者遺棄罪(218条前段)が成立し、罪責を負う。
第2 乙の罪責
1 甲がAを置き去りにして逃げた行為について保護責任者遺棄罪の教唆犯(61条1項、218条前段)が成立するか。
(1)乙は、「その他乗務員」として救護義務を負う(道路交通法72条1項前段)。しかし、甲がAを車に乗せている間、乙は関わりたくなかったため、助手席に座ってただ見ているだけであった。そのため、乙は、「保護する責任のある者」にあたらない。
そこで、乙は、「共犯」(65条1項)として責任を負うかが問題となる。
非身分者に身分の連帯作用を認める根拠は、非身分者が身分者の行為に通じて結果発生に因果性を及ぼすことにある。そのため、真正身分犯に関与した非身分者は、「共犯」になる。不真正身分犯は、同じ構成要件的行為を行った者の中でも身分者と非身分者とに異なる構成要件を設け異なる刑を科すこととしているから、非身分者には刑を加重すべきでない。
そこで、1項は真正身分犯について身分の連帯作用を規定し、2項は不真正身分犯について身分の個別的作用を規定したものであると考えるべきである。
保護責任者遺棄罪は、「保護する責任のある者」を構成的身分とする真正身分犯である。そのため、乙は、65条1項によって、保護責任者遺棄罪の「共犯」となる。
(2)乙は、関わりたくないと思って見ているだけであり、積極的な行為を行っていない。そのため、甲と乙の間に共謀は認められないから、共同正犯は成立しない。
「教唆」とは、他人に特定の犯罪を実行する決意を生じさせることをいう。乙は、「Aの怪我はたいした事なさそうなので、私たちが今すぐ病院に連れて行かなくても大丈夫じゃない。」と言い、甲は、乙の言うとおり、Aをすぐに病院に運んで行かなくても命にかかわるようなことはないだろうと思い、乙の言葉に従って、Aをどこか適当な場所に降ろして逃げてしまうことを決意した。そのため、乙の言葉が甲に置き去りの実行を決意させているから、「教唆」にあたる。
(3)乙は、Aが頭を打ったところを見ていなかったが、足に傷を負って歩行が困難になっていることを認識している。そのため、病院での治療を受ける必要があることを認識してるから、故意(38条1項本文)が認められる。
2 よって、乙は、保護責任者遺棄罪の教唆犯(61条1項、218条前段)の罪責を負う。
参考判例
[1] 北大電気メス事件(札幌高判昭和51・3・18判時820号36頁)。薬害エイズ帝京大学病院事件(東京地判平成13・3・28判時1763号17頁)。
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